【2020.05.30初出】
三つ子の魂
子どもの頃から負けず嫌いな性格。大人が相手でも、必ず勝つ。そして、必勝は勝ち逃げ。かつ、勝てない相手とは戦わない。身を守ること、チャンスは前髪で掴むこと。他者からは奪わないこと、などなど、幼少期に学んだことやこれまで関わっている方々の性格もあり、温厚な負けず嫌いな面を持ちながら、冷静沈着に分析する面もある。
幼少期の学習では、どうにも、顔は2枚目、性格は3枚目という強い理想があるらしく、親の育て方に感謝をしながらも、熾烈な社会を生き抜くために「3」の手を使って、「最弱は最強」という「赤ん坊」の手を使ってほしい、ということを理解しつつも、奥の手も用意をしている。そして、その次の手も。
0.2秒で信奉者
全人類が他人のために生きることを目的として、自分が動きたいことに集中して、自分自身の身体を動かせばいいのに、と思っている。SNS時代で、なぜ人はこれほどまでに他人に興味があるのだろう、と驚く。ふだん私は他人には、まったく関心がないが、たまに興味深い方に会うと、滅茶苦茶、引き込まれてしまう。0.2秒で信奉者になる自信がある。
信奉者になったあと、分析し、取り込み、実践し、己の糧とする。彼らからは、よく「ちゃんと踏み台にしろ」と言われる。最初は意味がわからなかったが、今はよく理解している。
自分がどんな世界にいるのか? 全身で感じたときに、自分がどういう世界を創りたいのか、唐突に浮かんできた。このイメージを具現化するためには、とても大きなエネルギーが必要になる。おそらく、そのうち、このエネルギーに同調し、おなじイメージを具現化する人々が現れる。それまで、自分は自分にできること、そしてこれからやりたいことを日々やり続ける。
行動社会学と人間主義
他人からは、遊んでいるように思えるかもしれない。
こちら側では、必死に生きている。ただ言われた通りに動いて、誰かが創った世界を生きている駒になりたくはないし、それは生きているとは言わない。社会に自らが参加し、新しい何かを創り、それを共有し、共に生きていく。
そのための活動をなぜしているか? 問われたら、親やいろいろな方から頂いたエネルギーを活用する方法を考えろ、とふっと閃いて、考え続けている。そうすると、ふっとこれがいいじゃない、あれがいいじゃない、と浮かんでくる。
過去の先輩たちも、理想を掲げ、この世界を創ってきた。そして、人が増え、僕らみたいな小さな世界も新しくできてくる。前後左右天地の違いを認め、領域の共有を行うこと。そのためのルールを先輩たちは創ってきた。時代とともに形骸化していたり、意味をはき違えたり、していることもあるかもしれない。
融和と対話を行うことで、同一化ではなく、区別した上でも、尊重しあえる関係性を創るしくみを考えていきたい。今、この世界で、自分自身が信じていることは、どこかの誰かが考えたしくみで、それはこの世界の「終わりなき始まり」を夢見たかもしれないし、争いのない平等社会を夢見たかもしれない。
「苦しみ」からの解放というと「宗教」に課せられた役割であると思うのだが、そもそもなぜ苦しみが生まれるのか。かつ「解脱」や「悟り」そのものが人類が向かうべき最終形態なのか。そこには私自身は懐疑的である。もちろん、どんな宗教も認めた上で(それはそれでよいと思う)、しかしあくまで個人の見解として、漫画の世界の『無限月読』のように、個々が眉の中で、動かずに夢を見ていたら、たしかに争いは起こらない。栄養をその眉の中の管からとれれば、人間は生きていける。身体性をなくし、精神性のみを活かすことで、平和を得る、という考え方を理想とする思想があることは理解している。しかし、私は、今の、あくまで、今の時代に限っていえば、「身体」「精神」「魂」この三位一体という考え方は、非常に理に適っているように思える。また食事についても、さまざまな考え方あることを踏まえた上で、この時代の課題は「身体を使わずに食料を得ることによる弊害」と考えている。これはエネルギーや命に対しての『感謝』の気持ちを感じることともに、『身体』を使うことと、『天候』により、左右されることや自然のエネルギーやその循環を感じることを身体で体得している必要があると思う。自然を身体で感じるととが社会性の喪失には繋がらないと考えるし、貨幣経済の否定にも繋がらない。自然と身体をつなげることは、シンプルに《身体性の回復》を行い、貨幣にとらわれず、「なぜ生きるのか?」という命題に対しての「問」と森羅万象の無為自然が万物流転していく様を受け入れていきながら、自らの何らかの「解」を持ち、日々を過ごすことに繋がるのではないか、思うのである。
私は動物のような生き方がよい、と伝えたいのではなく、身体性を回復することで、人間が『時間』という概念の本質を知ることができるのではないか、また、『自分が生きていく世界』を創るエネルギーに個人が気づき、そのチカラを持てるのではないか、と考えている。
この事については、行動哲学というジャンルを見習い、身体と時間を使い、実証していく。哲学者ソローが生活実証主義と本で読んだ。そういう先輩方もいるのだから、私も過去に学び、時間と身体を繋げていこう。
(ソローの哲学参考文献「ソローと森の生活」豊田 千代子)
『所有』という幻想
いい暮らしをするためにお金がいるのではなく、ごはんを食べるために先人が作った社会生活で必要のためにお金がいる。「所有」という概念そのものをなくしてしまうことは、「領域」がある限り、不可能と思われるが、果たしてそうだろうか。
今、私たちが住んでいる、
この地球は誰のものだろうか?
この空気は誰のものだろうか?
空気や地球に所有者はいるのか? それらは、人類のものですらないのだ。
二酸化炭素の排出権利などとして、空気を所有しようとしている動きもあるが、たとえ狭い人間社会の中でも、水と空気を誰かに支配させてはいけない。水も空気も温度や化学反応で形態変化するので、厳密には、支配も所有もしようがないけれども。すべては『概念』であるならば、『支配』をさせてはいけない。
例えば、日本国内では、漁業権がないと、海で魚や貝をとってはいけない。このルールを守らないと日本の法律では処罰がある。つまり、自然のものは誰のものでもない。魚や貝は『所有はできない』から、どのように支配していくか、というと『勝手にとってはダメだ』ということにして、『魚をとる権利』を一部の人間に支配層が与えた。このことで自分本位の乱獲を防いだり、無知な人間が自然界に入ってくることを防ぐという先人の良い知恵でもあったのではないか。しかしこの智慧も次第に既得権益を生んでいくのだ。このように、一方の利益は、もう一方の不利益になる。
これからの社会をどのように繋ぐのか
どのようなルールが現代に機能するのか、完璧な答えはない。
おそらく誰もやらないし、革新の方からも賛同されないことではあるが、「家族」や「血族」という集団の幻想を再構築した上で、「子」の所有や固有性を排除した形で、教育をした場合、おそらく短期間で「所有」という概念はなくなる。北朝鮮などの社会主義国は一見の理想を行っているようでいて、支配層と被支配層という二極化している古い構造であるので、これはまったく違うことを意味している。
それくらい現在の価値観を疑い、どの時点で成立した考え方なのか、歴史や文献を見れば、市立図書館やネット検索レベルで原書のタイトルくらいまではたどり着くことができる。
任侠映画を見ていると、実の親子の縁を切り、あちらの世界の親が親になり、兄弟になる。芸能の世界もどちらかというとそういう習慣がある。つまり、子どもは親の所有物ではなく、たとえば、18歳を超えたら、自らが家族を構成できるように、選べるようにしたら、よいと思う。かつては、婚姻の選択権は、本人にはなかった。今は、建前ではあるが、選択権はある。これを子が親を選ぶということに応用するのある。
これらの考えは、荒唐無稽に思えるかもしれない。しかし、社会を変えるということは荒唐無稽である。今起きている弊害を捉えると、「世襲」ということが血のつながりでおこなわれていることが多いということである。「世襲」が悪いということではなく、流動性がないため、長くとどまる状態が続く。つまり「変化」しないために、詰まっていくのである。自ら所有する子供へ「何か」を残したい、と思うようになる。さらに「安定」は、「代謝」を悪くしてしまう。圧迫されている側は、圧から逃れようと、反発していくだろうし、流れができたら、それに乗るだろう。これが度々起きる流転や社会の転換につながる。権力保持者は、それがおきないように流れができそうなら、それを切ったり、ガス抜きしたり、方向を変えたりしている。そして、権力の移行がおきないようにしている。
これの流れを別の視点でとらえるために「市民」は発想を変えよう。一人一人が一国の主として、政治を考えてみよう。政治家は、聞く力をもっている。私たちの考えていることがなんとなく伝わっていく。そして、政治家なんてたいへんな仕事を私利私欲では絶対に行えない。
政治家になる人、続けている人は、自らが天から与えられた能力を他人のために使おうと志している。だから、国民がひとりひとりが、理想の社会を構築することで、政治家は正しく動いてくれる。特定の政治家でなく、全員に嘆願書を送ろう。財源や制度設計は役人の仕事だ。
私たちは、どのような「社会」を創りたいか、
私の言葉でいうと、どのような「世界」を創りたいか?
この点を考えて、
心に描いて、形あるものを実行力のある存在へ
送ってみたら、世の中はあなたの思う方向に変わっていく。
あとは実践あるのみ。
【2022.02.16追記】
自由に生きる
ひさしぶりに以前書いた内容を読んでみた。何か変化があるか、と思ったが、当時考えていたことは確かに本当の気持ちだし、誰かの考えということでもなかった。
「自由に生きる」ことは、楽しい。 おそらく、ほとんどすべての人類がこれをしたいのではないか、と思う。そのために、働き、お金を稼ぎ、自由を得る。
しかし、なぜ人類は生まれながらにして自由ではないのだろうか?
人類は生まれながらにして自由である。
「生かし合う」知恵の輪に縛られて、不自由な暮らしをしていないかい?
僕たちは、いつも自由に生きている。
自由を得るために、「殺し合う」ことはない。
「生かし合う」知恵の輪を、自由になるために、解きほぐせばいい。
僕たちには、それができる。
やっぱり、こっちが自然なほうだと思う。
三つ子の魂、百まで。
そうだな、と自分自身で思う。もう少し経済社会の実践をしてみたいので、引き続き、トライはしていく。「生かし合う」知恵の輪に、これほどまでに「自由」が縛られているのか、と思ったのは、経済社会への参加をしていて感じていることである。
社会生活をする上で、歴史から学ぶことは多い。今のコロナ禍を乗り越える知恵が人類にある。たとえば、「科学」が登場してきたとき、人類は「神」を捨てなければ、「科学」を追求できなかった。しかし、今は、「神」を捨てなくても「科学」を追求できる。つまり、科学と宗教は同時に存在しうることが可能になったのだ。同じことが今、まさに日本で起きている。
非科学的だったり、エビデンスがなかったり、そのことで、「存在しない」となっていることがある。しかし、「神」を信じる者が「科学」に携わることができるように、論理的思考回路においては、すべて存在することができる。
たとえば、これは私が2021年にあらためて感じたことで、人間の「痛み」や「感覚」は、神経を外すことで感じなくすることができる。医学的にはあたりまえのことだが、これを「神経を外すことで」という言葉なければ、とても不思議なことを言っていると思われる。不思議な力でも同じようになるかもしれない。しかし、それはごく稀な例外を除いて、命を短くする。そのため、日本においては、多くの場合、医療でない力に頼る必要はあまりない。通常は、良い医者のところへいき、素直に相談をして、きちんと身体を診てみもらい、素直に指示を受け、ゆっくり療養するだけで充分である。
そして、それが長く生きるコツだ。もちろん、自分自身の気合いで、治ることもある。ところで、自分自身とおなじようなことが他人に起きたときにどのように感じればいいか、対処方法を記しておいてもいいかもしれない。
自分のチカラを信じる
私は、私が生まれたときから「社会」は存在していたし、大きな「世界」の中にいた。世界と私はつながっていたし、今もつながっている。
君たちは、『自分のチカラを信じていい』
世界の限界の少しずつ挑み続け、拡張していった結果が今、存在するこの「世界」である。それは、ひとりの力ではなく、何代にもわたり、数えきれない人々の世界が混じり合ってできている。
君たちは、誰かの力ではなく、
『自分自身の力を信じればいい』
そうすれば、「世界」は変わる。
ほんのすこし、一京分の1ミリかもしれないし、もっと少ないかもしれない。
それでも、誰かが何かを思えば、その分だけ、世界はその方向に進む。
私の願い
「すべての戦争がない世界に、平和な状態を恒久維持する」
私は、この「願い」を神様にさせていただいた。神頼みだけではなく、人間のチカラで平和へと進むために、私は「なぜ、戦争になるか」を考えた。まず第一の原因は人間が動物である以上は他者と領域を共有し、共存することできない、という事実である。人間が個の自己同一性を確立していくことで、他者との差異を違和感と感じるようになっている。「差異」は「自己」と「他社」を区別する。さらに「他の存在」は時に生存をおびやかす「恐怖」となる。
他と自己の差異をどうつなげるか
このテキストを読んでいる君たち(読者)と私はすでに意識が繋がっている状態である。これはスピリチュアルなことではなく、同じ文章を読む、あるいは同じ動き(シンクロ)をすることで、身体と心が同期していくのである。声に出すことでも、この繋がりは深まっていく。君たち読者が思うことと私が思うことはどこかで同一化していくのである。ここからは多少、踏み込んだ内容になるが、私が思うことの中には君たちは思っていることもあるのである。より顕著になる事例が「同じ釜の飯を食う」などという状態である。肉体的にも、精神的にも、物質的にも同一空間で過ごすことで、習慣がおなじになり、価値観や思考も同化や影響をしてくる。もちろん良い影響も受けるのである。ちなみに能力も影響される。強い能力のある人の側にいると、その能力は移っていくのである。だから環境や友人や仕事の関係はとても大切なのである。
この同化という現象は頻繁に行われる。しかし逆に「バカが移る」という具合に穢れを忌きらう人の多くは、他の人種と同化することを忌み嫌うし、タブーとしている価値観もある。日本人も純潔思考が強く、混じることには否定的だと思うのである。
それぞれの文化にアイデンティティがあり、気の合わない他や支配してきそうな他を拒絶することがあり、それが争いを生むのである。また戦争に勝った場合にとる行為もこの同化政策である。
暴力による同化ではなく、自然に共生による時間の中で、
他者を拒絶せずに受け入れるとどうなるか。
これはまだまだ実験は必要であるが、私はおもしろいことが起きると仮定している。まず最初は受容したほうが、受容された他者の影響が大きくなる。有名人の影響を受けている子どもをイメージしてみたらよい。その後にしずかに、受容したほうからの同化が始まってくるのである。ファンに支えられているアーティストは、ファンを励ましたり、ファンに喜んでもらうために働くことになる。相互に良い影響を与える共存関係を構築しているのである。
そのチカラを最初の「願い」を叶えるために使いたい。
おそらく「社会」そのものを変えることになる。
それを「殺し合い」ではなく、「生かし合い」で変えていく。
ところで、私は、幼いころから、勝てない喧嘩はしない。
いや、そもそも喧嘩しない。
ただ、目の前で、何か違和感があると、それに素直に反応してしまう。
人間にはふしぎなチカラがある。
それは「信じたことが現実になる」のである。
それでは、あなたは、どのような「社会」を信じるのか?
私は、あなたに問う。
「あなたは、どんな社会を信じているのだろうか?」
私は、「生かし合う社会」を信じている。
《理念から実践へ》
以上をふまえて、実践的社会生活を行うと、ひとつずつ思考は現実になってくる。
【追伸】
必ず憎しみは憎しみとして、慈しみは慈しみとして、かえってくる。
私はそう信じているし、多くの人類がそのことを信じている。
だから、憎しみなど持たなくていいし、差異を見える化した上で、
生かし合う方法を探せばよいのだと思う。
【2023.02.03追記】
最初にこのテーマを書いてから、二年以上が経ち、少しリライトをいれた。哲学や宗教の歴史や文脈を再学習をしていると、私のこの概念は、新しいものではなく、引用元を明記することがすべて可能である。今後は、少しずつ引用も記載していきたいと考えている。
現代社会において、一般の一個人が『行動』を通じて、『社会』にどう変化を加えていくのか。それは暴力による現状の『領域』変更ではなく、少しずつゆるやかに、かつ確実に流動していく『領域』変更をどのように起こしていくのか。これからの私の課題はそこになってくる。これまで不断の努力で実践してきた先輩方がいるからこそ、これからの実装へ向けた体系化ができると思うのである。
『成功哲学』や『自己実現』の真理を学んでいく中で、最近、私が思うことがある。知人にも話をして、ニュアンスを確かめている。それは「マズローの5大欲求」に新たに加える新しい人間の欲求があるとするならば、それは『社会実現』への欲求であろう」と思うのだ。現代は「社会起業家」がもてはやされているし、社会貢献が美徳とされている。社会への利益を自己の喜びとする。そういうタイプが主流となってくる。
(これはいうなれば「市場原理の終焉」である)
その時に「一方の利益がもう一方の不利益になってはならない」し、抑圧されている者が解放されても、新たな抑圧者になってはならないし、支配者を倒して、新たな支配者を創ってもならない。
一時期のアメリカは自由の国として、憧れになっていた。管理された中央集権国家では、《体制》側以外は、皆平等ということあるだろう。この実行には、『移動』の自由を縛る必要がある。『移動の自由』に制限をかけることにより、「法」による支配ができるのである。これからは、『法』の効力を持った状態で『移動』を自由にすることが大切になってくる。この新しい自由のためには新しい秩序が必要になる。
国家や文化という概念がある現代において、人間が完全にフリーアドレスになると、犯罪(暴力による領域侵犯)を取り締まることができなくなる。そうなると弱い集団や弱い個体は生きていけなくなる。その世界では、動物的に生存能力が強いものだけが生き残る世界になってしまう。(北斗の拳やマッドマックスのような世界)
「経済活動を含めたさまざまな活動を伴う移動の自由」を安全に行うためには、国家間のルールが必要になる。これが他者のルールを受け入れるということである。
日本の文化がどう変わるのか
さて、2023年5月8日には、『マスク解除』の大号令がかかるだろう。さまざまなキャンペーンがでてきて、手のひらをかえすように「マスクをすることのデメリット」もでてくるだろう。そして、ほとんど誰もが気づかないうちにふたたび世界は変わっている。比喩ではなく、科学的な意味でも人間の骨は約3~5年で新しい組織に入れ替わるので、3年前の自分と今の自分は文字通り『別の人』である。さらに皮膚の細胞はもっと早く入れ替わる。つまり、物質的な意味においても、『過去』の自分と『今』の自分と『これから』の自分は別人である。
過去と現在、そして未来の自分を繋げている《しくみ》が『社会』と呼ばれている存在である。
社会の構成要素とは何か、とういうと、
『名前』『住所』『携帯』『メールアドレス』『所属』などである。
概念的には、「私は誰だ?」という問いに答えることに必要な「名前」が「社会」なのである。「名前」が個人を固有にして、祖先や土地と結びつける存在であった。しかし、SNSを中心にアノニマス(匿名人)が登場したことにより、祖先にも土地にも個人を縛るものない状態の人間が生まれてしまった。かつては、それは特殊な存在だったが、今は特殊ではない。その結果、何者にも縛られない「アンチェインの者達」が生まれている。彼らに『法』は通用しない。『法』に書かれている自らではその行為をしない。だからこそ、『指示』しただけで同罪となるのであるが、かつての事件では、指示もせず、「忖度」で犯罪を起こすものもある。なんらかの行為(サイン)を指示とみなして、同罪とするように法律も変わってはいる。さらに各国の政府にはそれぞれの国の国民を守るために『匿名人』を監視し、抑止する警察などの組織を強化していってもらいたいと願うのである。
さあ、物騒な話はこのあたりでやめて、明るい話題に変えていこう。
さて、ここ10年~15年程は『自己実現』より上位にある『社会実現』という課題が人類のテーマになってきていると感じている。どのような社会への変遷になるか、というと、『個人の社会的役割の変化』、『個人の社会的役割の循環』である。
超高齢社会「日本」
なぜ変化が必要なのか?
現代の日本において、異次元の対策をうつこともなく、もはや少子社会は問題でなくなっている。すでにある『超高齢社会』への対策をする必要がある。ここ20年間で日本が備えたものは「介護業界」と「投資信託」であった。しかしコロナのパンデミックで多くの人間が気づいた。本当に必要なものは「支援」と「投資」ではなく、自らの「健康」と「友人」であったのだ。
2,000万円あっても、動ける身体と考える頭脳と変化を受け入れる心がなければ、何もならないのである。それらを解放し、社会と繋げられる「新しい友人」(年齢性別関係なく)の存在が大切になる。既存の制度においては、器量も性格もいい「介護職」がよく、この『友人』の役割も引き受けてしまっているのだが、それは『おしつけ』であり、まさに『やりがい』搾取と言われる理由のひとつであると思う。
私は『介護業界』に対しては、本当に頭がさがる気持ちでいっぱいである。中の人は真面目だし、一生懸命だし、心根がよい。だからこそ、そこを利用しないでほしいし、そこにあまえないでほしいのである。
介護業界とは切り離して、異次元の「超高齢化社会」の対策として、「新しい友人」をどう創るか、社会実装を求めたい。孤立する高齢者に対して、それが今もっとも必要なしくみである。
「老人」ではなく、「超人」や「敬人」「恵人」
それと、もう「老後」という言葉を私は使わないことにした。
新しい言葉を考える。
出世魚のように人間も呼び方が変わるのであるならば、
「赤ん坊→子供→若者→大人→???(超人、敬人、恵人…etc)」
このように「老人」ではなく「超人」と言ってもよいのではないだろうか。
(智人や恵人が私は気にいっているが、既存の言葉を最初にはめてみると、
超人がよいかもしれない)
なぜならば、人間は必ず歳をとる。必ずである。それならば、楽しく歳をとれるような言葉を使うほうがよいと私は、思う。一年ずつ歳をかさねるたびに、ひとつずつ智慧を重ねる。ひとつずつ何かに近づいていく。そして、その智慧の輪は新しい友人となる後輩に伝えていくことができる。それは『老』ではなく、『智』『慧』『恵』を使いたい。これからメディアにも何か、よい言葉がでてくるだろう。
尊敬の意味があった『老』であるが、嫌われてしまった感もあるので、異次元の超高齢化対策として、『名称を変更』してはいかがだろうか。
これからの日本、そして世界へ
サイバー空間上の匿名が禁止になるのだろう。インターネットのサイバー空間は匿名性や秘匿性から一気に広まったが、現在は固有の名前で活動する空間に変わっている。SNS上では、まだ匿名の名残りがある。名が在る人と匿名の人が混じって存在している状態である。いずれサイバー空間の表社会からは匿名人は消える。
そして、今以上に一般市民が生活で利用するエリアと犯罪エリアは明確に分かれる。サイバー警察も発展しながら、未知の領域の開拓も進むと思う。