芝浜-Shibahamaー

Planning / Production / Operation / Production/Career/Dream/Work

Biography&Creation【現在進行形の思考および創造】

子どもの頃から負けず嫌いな性格。大人が相手でも、必ず勝つ。そして、必勝は勝ち逃げ。かつ、勝てない相手とは戦わない。身を守ること、チャンスは前髪で掴むこと。他者からは奪わないこと、などなど、幼少期に学んだことやこれまで関わっている方々の性格もあり、温厚な負けず嫌いな面を持ちながら、冷静沈着に分析する面もある。

 

 幼少期の学習では、どうにも、顔は2枚目、性格は3枚目という強い理想があるらしく、親の育て方に感謝をしながらも、熾烈な社会を生き抜くために「3」の手を使って、「最弱は最強」という「赤ん坊」の手を使ってほしい、ということを理解しつつも、奥の手も用意をしている。そして、その次の手も。

 

 全人類が他人のために生きることを目的として、自分が動きたいことに集中して、自分自身の身体を動かせばいいのに、と思っている。SNS時代で、なぜ人はこれほどまでに他人に興味があるのだろう、と驚く。ふだん私は他人には、まったく関心がないが、

たまに興味深い方に会うと、滅茶苦茶、引き込まれてしまう。0.2秒で信奉者になる自信がある。

 

 信奉者になったあと、分析し、取り込み、実践し、己の糧とする。彼らからは、よく「ちゃんと踏み台にしろ」と言われる。最初は意味がわからなかったが、今はよく理解している。

 

 自分がどんな世界にいるのか? 全身で感じたときに、自分がどういう世界を創りたいのか、唐突に浮かんできた。このイメージを具現化するためには、とても大きなエネルギーが必要になる。おそらく、そのうち、このエネルギーに同調し、おなじイメージを具現化する人々が現れる。それまで、自分は自分にできること、そしてこれからやりたいことを日々やり続ける。

 

 他人からは、遊んでいるように思えるかもしれない。

 こちら側では、必死に生きている。ただ言われた通りに動いて、誰かが創った世界を生きている駒になりたくはないし、それは生きているとは言わない。社会に自らが参加し、新しい何かを創り、それを共有し、共に生きていく。

 

 そのための活動をなぜしているか? 問われたら、親やいろいろな方から頂いたエネルギーを活用する方法を考えろ、とふっと閃いて、考え続けている。そうすると、ふっとこれがいいじゃない、あれがいいじゃない、と浮かんでくる。

 

 過去の先輩たちも、理想を掲げ、この世界を創ってきた。そして、人が増え、僕らみたいな小さな世界も新しくできてくる。前後左右天地の違いを認め、領域の共有を行うこと。そのためのルールを先輩たちは創ってきた。時代とともに形骸化していたり、意味をはき違えたり、していることもあるかもしれない。

 

 融和と対話を行うことで、同一化ではなく、区別した上でも、尊重しあえる関係性を創るしくみを考えていきたい。今、この世界で、自分自身が信じていることは、どこかの誰かが考えたしくみで、それはこの世界の「終わりなき始まり」を夢見たかもしれないし、争いのない平等社会を夢見たかもしれない。

 

 「苦しみ」からの解放という「宗教」の命題もあるが、そもそもなぜ苦しみが生まれるのか。かつ「解脱」そのものが人類が向かうべき最終形態なのか。そこには私自身は懐疑的である。もちろん、どんな宗教も認めた上で、それはそれでよいと思う。しかし個人の見解として、漫画の世界の『無限月読』のように、個々が眉の中で、動かずに夢を見ていたら、たしかに争いは起こらない。栄養をその眉の中の管からとれれば、人間は生きていける。身体性をなくし、精神性のみを活かすことで、平和を得る、という考え方である。

 

 それよりも、今の、あくまで、今の時代に限っていえば、「身体」「精神」「魂」この三位一体という考え方は、非常に理に適っているように思える。また食事についても、さまざまな考え方あることを踏まえた上で、これからの課題は「身体を使わずに食料を得ることによる弊害」と考えられる。『感謝』という言葉でいうことだけでなく、『身体』を使うことと、『天候』により、左右されることやエネルギーの循環を感じることを身体で体得している必要があると思う。そのことが社会性の喪失には繋がらないし、貨幣経済の否定には繋がらない。ただ単に、身体性の回復を行い、貨幣にとらわれず、「なぜ生きるのか?」という命題に対しての「解」を持ち、日々を過ごすことができるのではないか、と思う。

 

 動物的生き方がよい、ということでなく、身体性の回復することで、人間に『時間』という概念の本質を知ることで、自分が生きる世界を創るエネルギーを持てるのではないか、と考える。

 

 身体と時間を使い、実証していく。哲学者ソローが生活実証主義と本で読んだ。そういう先輩方もいるのだから、過去に学び、時間と身体を繋げていこう。

 (ソローの哲学参考文献「ソローと森の生活」豊田 千代子

 

 いい暮らしをするためにお金がいるのではなく、ごはんを食べるために先人が作った社会生活で必要のためにお金がいる。「所有」という概念そのものをなくしてしまうことは、「領域」がある限り、不可能と思われるが、果たしてそうだろうか。

 

 今、私たちが住んでいる、

 

この地球は誰のものだろうか? 

この空気は誰のものだろうか? 

所有者はいるのか? 

二酸化炭素の排出権利などとして、空気を所有しようとしている動きもあるが、

水と空気を誰かに支配させてはいけない。

 

温度や化学反応で形態変化するので、

厳密には、支配も所有もしようがないけれども。

 

 閑話休題。

 漁業権がないと、海で魚や貝をとってはいけない。守らないと日本の法律で処罰がある。つまり、所有はできないから、とってはダメだ、として、とる権利を一部に与えた。乱獲を防いだり、無知な人間が入ってくることを防ぐ知恵であった。しかしこれが既得権益を生んだ。一方の利益は、もう一方の不利益になる。

 

 どのようなルールが現代に機能するのか、完璧な答えはない。

 おそらく誰もやらないし、革新の方からも賛同されないことではあるが、「家族」や「血族」という集団の幻想を再構築した上で、「子」の所有や固有性を排除した形で、教育をした場合、おそらく短期間で「所有」という概念はなくなる。北朝鮮などの社会主義国は一見の理想を行っているようでいて、支配層と被支配層という二極化している古い構造であるので、これはまったく違うことを意味している。

 

 それくらい現在の価値観を疑い、どの時点で成立した考え方なのか、歴史や文献を見れば、市立図書館やネット検索レベルで原書のタイトルくらいまではたどり着くことができる。

 

 任侠映画を見ていると、実の親子の縁を切り、あちらの世界の親が親になり、兄弟になる。芸能の世界もどちらかというとそういう習慣がある。つまり、子どもは親の所有物ではなく、たとえば、18歳を超えたら、自らが家族を構成できるように、選べるようにしたら、よいと思う。かつては、婚姻の選択権は、本人にはなかった。今は、建前ではあるが、選択権はある。これを子が親を選ぶということに応用するのある。

 

 荒唐無稽に思えるかもしれない。しかし、社会を変えるということは荒唐無稽であり、今起きている弊害を捉えると、「世襲」ということが血のつながりでおこなわれていることが多いということである。「世襲」が悪いということではなく、流動性がないため、長くとどまる状態が続く。つまり「変化」しないために、詰まっていくのである。自ら所有する子供へ「何か」を残したい、と思うようになる。さらに「安定」は、「代謝」を悪くしてしまう。圧迫されている側は、圧から逃れようと、反発していくだろうし、流れができたら、それに乗るだろう。これが度々起きる流転や社会の転換につながる。権力保持者は、それがおきないように流れができそうなら、それを切ったり、ガス抜きしたり、方向を変えたりしている。そして、権力の移行がおきないようにしている。

これの流れを別の視点でとらえるために「市民」は発想を変えよう。一人一人が一国の主として、政治を考えてみよう。政治家は、聞く力をもっている。私たちの考えていることがなんとなく伝わっていく。そして、政治家なんてたいへんな仕事を私利私欲では絶対に行えない。

 

 政治家になる人、続けている人は、自らが天から与えられた能力を他人のために使おうと志している。だから、国民がひとりひとりが、理想の社会を構築することで、政治家は正しく動いてくれる。特定の政治家でなく、全員に嘆願書を送ろう。財源や制度設計は役人の仕事だ。

 

 私たちは、どのような「社会」を創りたいか、

 私の言葉でいうと、どのような「世界」を創りたいか? 

 

 この点を考えて、

 心に描いて、形あるものを実行力のある存在へ

 送ってみたら、世の中はあなたの思う方向に変わっていく。

 

 あとは実践あるのみ。

 

【2022.02.16追記】

 ひさしぶりに以前書いた内容を読んでみた。何か変化があるか、と思ったが、当時考えていたことは確かに本当の気持ちだし、誰かの考えということでもなかった。

 

 「自由に生きる」ことは、楽しい。 おそらく、ほとんどすべての人類がこれをしたいのではないか、と思う。そのために、働き、お金を稼ぎ、自由を得る。

 しかし、なぜ人類は生まれながらにして自由ではないのだろうか?

 

 人類は生まれながらにして自由である。

「生かし合う」知恵の輪に縛られて、不自由な暮らしをしていないかい?

 僕たちは、いつも自由に生きている。

 

 自由を得るために、「殺し合う」ことはない。

 「生かし合う」知恵の輪を、自由になるために、解きほぐせばいい。

 

 僕たちには、それができる。

    やっぱり、こっちが自然なほうだと思う。

 

三つ子の魂、百まで。

 

だな、と自分自身で思う。

 

もう少し経済社会の実践をしてみたいので、引き続き、トライはしていく。

「生かし合う」知恵の輪に、これほどまでに「自由」が縛られているのか、と思ったのは、経済社会への参加をしていて感じていることである。

 

 社会生活をする上で、歴史から学ぶことは多い。今のコロナ禍を乗り越える知恵が人類にある。たとえば、「科学」が登場してきたとき、人類は「神」を捨てなければ、「科学」を追求できなかった。しかし、今は、「神」を捨てなくても「科学」を追求できる。つまり、科学と宗教は同時に存在しうることが可能になったのだ。同じことが今、まさに日本で起きている。

 

 非科学的だったり、エビデンスがなかったり、そのことで、「存在しない」となっていることがある。しかし、「神」を信じる者が「科学」に携わることができるように、論理的思考回路においては、すべて存在することができる。

 

 たとえば、これは私が2021年にあらためて感じたことで、人間の「痛み」や「感覚」は、神経を外すことで感じなくすることができる。医学的にはあたりまえのことだが、これを「神経を外すことで」という言葉なければ、とても不思議なことを言っていると思われる。不思議な力でも同じようになるかもしれない。しかし、それはごく稀な例外を除いて、命を短くする。そのため、日本においては、多くの場合、医療でない力に頼る必要はあまりない。通常は、良い医者のところへいき、素直に相談をして、きちんと身体を診てみもらい、素直に指示を受け、ゆっくり療養するだけで充分である。

 

そして、それが長く生きるコツだ。もちろん、自分自身の気合いで、治ることもある。

 

 さて、自分自身とおなじようなことが他人に起きたときにどのように感じればいいか、対処方法を記しておいてもいいかもしれない、と思った。

 

 私は、私が生まれたときから「社会」は存在していたし、大きな「世界」の中にいた。世界と私はつながっていたし、今もつながっている。  

 

 君たちは、『自分たちの力を信じていい』

 世界の限界の少しずつ挑み続け、拡張していった結果が

 今、存在するこの「世界」である。それは、ひとりの力ではなく、

 何代にもわたり、数えきれない人々の世界が混じり合ってできている。

 

 君たちは、誰かの力ではなく、

 『自分自身の力を信じればいい』

 そうすれば、「世界」は変わる。

 

 ほんのすこし、一京分の1ミリかもしれないし、もっと少ないかもしれない。

 それでも、誰かが何かを思えば、その分だけ、世界はその方向に進む。

 

「すべての戦争がない世界に、平和な状態を恒久維持する」

 

 私は、こういう「願い」をした。

 まず、「なぜ、戦争になるか」まじめに考えると、その原因は他者と領域を共有し、共存できない、という事実である。これは人類がアイデンティティを確立したが故に、他者との差異を違和感と感じるようになったのではないか、と考える。

 そして、「差異」は時に生存をおびやかす「恐怖」となる。

 

 さて、私は、すでに君たちと繋がっている。つまり、君たちが思うことは、私が思うことであり、私が思うことは君たちが思っていることである。思考の同一化という現象で、マインドコントロールなどとも言われるが、物質的に同一空間で過ごすことによる同化や影響を受けている人間や環境、関係性などにより、この同化現象は頻繁に行われている。多くの場合は、それぞれにアイデンティティがあり、気の合わない他者を拒絶するため、差異の多い他者とはこの同化現象はおきにくい。

 

 しかし、他者を拒絶せずに受け入れるとどうなるか。

 

 これはおもしろいことが起きる。最初は受容したほうが、受容された他者の影響が大きくなる。その後にしずかに、受容したほうからの同化が始まる。このことについて、エビデンスが欲しい人は、私と直接会えばよい。おそらく、一度、おなじ空間にいただけで、2週間以内につながるだろう。そして、一度つながった感覚は、離れることはない。意思の共有化を行うことで、できることは多くある。

 

 それを最初の「願い」に繋げていきたいと思っている。

「社会」そのものを変えることになるのだが、それを「殺し合い」ではなく、

「生かし合い」で変えていく。

そうそう、私は、幼いころから、勝てない喧嘩はしない。

いや、そもそも喧嘩しない。

ただ、目の前で、何か違和感があると、それに素直に反応してしまう。

 

エビデンスが必要ならば、このテキストをエビデンスにしてもいい。

人が信じたことが現実になる。どのような「社会」を信じるのか?

 

私は、「生かし合う社会」を信じたいし、そうすることが良いことだと信じる。

 

《理念から実践へ》

以上をふまえて、実践的社会生活を行うと、ひとつずつ思考は現実になってくる。

 

【追伸】

 必ず憎しみは憎しみとして、慈しみは慈しみとして、かえってくるからね。

 私はそう信じているし、おそらく多くの人類が信じている。

 だから、憎しみなど持たなくていいし、差異を見える化し、

 生かし合う方法を探せばよいのだと思う。

(R)shibahama since 2020